アンチフェミの元カレ、おもしれー男

始発を待つ新宿のエジンバラで「俺フェミニスト嫌いなんだよね」と言い放った彼の言葉に脳内でアラートが鳴った。(こいつと付き合えば未来が不幸になりまくる!)(未来が不幸になりまくる!)(未来が不幸になりまくる!)(未来が不幸になりまくる!)風呂をサボった次の朝シャワーから出てきた瞬間の緊急地震速報みたいな、身構える隙もなく一音目で全身の毛が逆立ち内臓が凍りつくアラートだった。かくして脳内アラートを無視する時だけドバドバ出まくる脳内物質で前後不覚になった私は、彼に恋して毒のプールへ飛び込んだ。

 

 

私はフェミニストで、彼はアンチフェミニストだった。

LINE以外のSNSをやってないのにTwitter文化圏外でどうやってアンチフェミになったのか不思議だったが、なるほど彼は5ちゃんねらーだった。しかも、まとめブログを斜め読みする講義中の暇な大学生みたいなレベルじゃなく、「俺の情報ソースはYahoo!ニュースと5ちゃんねる」と豪語する、5ちゃんねる大学首席の優等生だった。

 

"まともな”フェミニストは不可視化され、悪意で歪められた”過激な”フェミニストによる検閲とシュプレヒコールで焼き尽くされた地獄で彼は生きていた。それは、男みたいな女でないと生き残れないマスコミ業界で、普通の女のまま生きのびる希望をフェミニズムに見つけた私の地獄とはぜんぜん違う場所だった。

 

私の地獄を見せたいとは思わなかった。彼を地獄から救いたいとも思えなかった。彼の目につかないように、タイトルを読むだけで奮い立たせてくれたフェミニズム書籍を本棚の奥へ追いやると、自分が何と戦っていたのかだんだんわからなくなった。人生の使命を奪われたような無力感は日々の空気に馴染んでいって、健康的に無責任になった私は誰が聞いても同情不可避な言い訳を与えてくれた彼くんサンキューとすら思ってた。

 

モーニング娘。'14が「たった1人を納得させられないで 世界中口説けるの?」って歌ってる。正しい。でも完璧に違う。私は世界中のアンチフェミとレスバしてクソリプで蜂の巣にされてもいい。多少落ち込むかもだけど、殺人予告は怖いけど、そんなことで私の価値が貶められるわけがない。むしろ全方位から遮二無二つけられた裂傷は、ランダムに光を集めてピュアに強く輝くはずだ。ダイヤモンドは砕けないのだ。

 

そんなことより、目の前にいるたった1人に拒絶されるのが怖かった。大事にしたいものよりも、自分が大事にされたかった。

 

思い返せば、彼からアンチフェミ的な発言を聞いたことは実際そんなに多くなかった。もちろんそういう話題にならないように私が誘導しまくった。結局彼のアンチフェミムーブは男子校とか非モテとか、経験ありきの実感ベースではなくて、5ちゃんねるという老舗の偏見屋さんで秘伝のタレをちょっと舐めたらおいしかった程度のものだった。草むらにミソジニーのつぼみを探して歩く終末の牧野富太郎みたいな人でなかったのはせめてもの救いだと今さら自分を慰める。

 

だって、亭主関白になりたくないって言ってたじゃん。実家のオカンは同居してる義両親の奴隷で、家庭にすべてを捧げて不満のひとつも言わなくて、そんなオカンを守らないオトンが恨めしいって言ってたじゃん。それも多分フェミニズムだよって、最後までずっと言えなかった。自分の力じゃどうにもならない理不尽の名前を知るだけで倒すべき敵の姿が見えてくること、立ち向かう気力が湧いてくること、同じ敵と戦う遠くの誰かに励まされること、欺瞞だろうと彼に伝えられたらよかった。もうどう思われようと知ったこっちゃない今だからこんな偉そうに言えるのに、今さら言うつもりもない。元カレってそんなもんだ。私も所詮その程度だった。

 

 

彼がアンチフェミニストだったから私たちは別れた。

同じぐらいの自然さで、彼がアンチフェミニストだったから、私は彼を手放せなかった。

 

 

別れる1ヶ月ぐらい前、「このままセックスレスだと性欲爆発して痴漢しちゃうかも」と彼が言って、こいつを射殺するのは私でなければと思った。本気じゃない、そんな度胸があるわけない、でも本心だとわかった。マジでキモい。殺意めいた拒絶が脊髄反射で口をついた。今日このデートが終わったら別れよう。解散したらLINEを送って、荷物をまとめて彼に返して、彼の家に置いたIPSAのスキンケアセットはもったいないけど捨ててもらって、旅行の宿もキャンセルして、フジロックの1日券は譲渡に出そう。もう会うことはないでしょう。ほれぼれするほど冷酷に算段を済ませて、そして何もできなかった。その日の夜にはいつものようにLINEして、次に行きたいスリランカカレーの食べログを送り合った。

 

私は彼を変えられない。彼の思想も受け入れられない。恋愛感情は残機0で、同情すらちょっと難しく、こんなに一緒にいられないのに、どうして別れられなかったんだろう。

 

私はただ、彼という人間の受け入れられなさを求めていたのかもしれない。手を伸ばしても届かない場所。祟りマストの禁足地。そういう吐きそうなほど理解不能な他人という存在を所有し、所有されることに燃えていた。大人になると、経験とか人脈とかお金とか、手を尽くせばある程度のレベルまではコントロールできるようになった。というか私は、身の丈にあった短期的な目標に向かって鼻血出るまでやっていくみたいなのが割とずっと好きなんだった。受験とか就活とか長くて1年ぐらいのやつだけど。でもそれは、私の手の届く範囲には、手に負えるものしか存在しなくなるってことだった。そうなると日常をぶっ壊してくれるアウトオブコントロールを求めるのが人情で、というかそういうフェチが一丁あがって、台風の日にL'ANGELIQUEのブラとパンツで川の様子を見に行く恋愛不謹慎厨に成り果てた。木々やゴミや赤ちゃんイノシシを飲み込みふくらむ濁流(神戸では一般的な光景)を前にして思えることは「何もできねー」しかないのに、平素から新自由主義の豚である私はモラルも責任も正しい努力も放棄できる恋愛の脱法性みたいなものに惹かれてパンツをグショグショにするのかもしれない。

 

 

わからないもののそばにいたい。わからないものに支配されたい。マゾヒスティックな欲望は自己否定で、自己防衛だと気がついた。自己肯定感が低すぎて、そのくせプライドは高すぎて、真正面から評価を受けることが恐ろしくてたまらない。恋愛はその繰り返し。終わりのないマジレスじゃん。思えば初恋から今日まで片思いにしか興味がなかった。付き合えそうになると逃げたくなる。蛙になる前に走り出す。それもすべて果てしない査定の日々からの防衛機制だったのかも。20代も折り返したころ、評価から逃げてる限りSDGsな関係にはなれないと気づいた私は、評価を真に受けずに済む方法にたどり着いてた。無意識で。それがお話にならない男性を好きになるというソリューション。お話にならない男性とは、価値観の違いなどで文字通り会話が成立しないおもしれー男。おもしれー男はいつだって私の尊厳を蹂躙するときが一番おもしれー。当然つらい。でもおもしれー。傷つきながらおもしろがってた。言葉の通じない国で流しのタクシーに乗ったみたい。どこに連れて行かれるかわからない、最悪殺されちゃうかもしれない、ビビってる時間が好きだった。人生におもしろくない時間は必要なかった。

 

 

アンチフェミの元カレと別れたあと国宝級のおもしれー男を好きになって死にかけてたとき、ありえない数の星占いを見ている中に「今週の水瓶座は人生は不幸になるには短すぎる」と書いてあって、え、それ真実じゃんと思い、おもしれー海賊団の船を降りた。降りた港に男がいた。そんなにおもしれくないその男は私の、手の届かない、絶対理解できない部分があるところが好きだと言っていた。「ぼくはガサちゃんのこと一生追いかけてると思う」なんて言われた。そんなこと言う人おもしろくないけど、大事にしようとちょっと思った。私も誰かのおもしれー女になっていた。